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画・甲斐大策

中村哲 思索と行動 

「ペシャワール会報」現地活動報告集成[上]1983〜2001
中村哲 ペシャワール会・発行/忘羊社・発売
本体:2700円+税 *A5判上製/432ページ

病・貧富・戦乱… 世界の不条理に挑む 長い旅が始まった。
1984年、パキスタン北西部の古都ペシャワールのハンセン病院に赴任した中村哲医師。
ソ連軍撤退と国際援助ラッシュの狂騒を尻目に、内戦下のアフガン、そしてパキスタン最奥部の無医村へ。
寄る辺なき患者達に希望の灯を届けるべく苦闘し続けた実践の軌跡。
※中村哲医師から日本の支援者に向けて送られた37年間の活動報告を集めた決定版!(上下巻/上巻は創刊準備号〜70号までを収録/下巻は’24年春刊)

「発会式のときには、思わぬ方々から多くの御支持と励ましをいただいて本当に感謝でした。多くの心ある方々が、夫々の目立たぬ場所から暖い励ましの声を送って下さっていることを実感しました。こういうたぐいのことは、えてして悲壮な出征兵士のように、重苦しさと感傷的な気分でみたされやすいものです。しかし、私だけが自分でなにかをするのではなく、もっと広くて大きな、人々の良心の奥にあるものに支えられているという実感が私を楽天的にします。(中略)ぜひとも、このペシャワール会が継続性をもって着実に拡大し、私たちの良心の共通の灯として、今後も人々の心に訴え続けることができるよう、力を合わせてゆきたいと思います。」(第1号「ペシャワール会会員の皆様へ!」より)

目次
●準備号(1983)
ご挨拶
●1号(1983・12)
ペシャワール会会員の皆様へ! ロンドンより
●2号(1984・4)
リヴァプールより ご批判にこたえて
●3号(1984・5)
ペシャワール通信⑴
●4号(1984・12)
ペシャワール通信⑵
ペシャワール通信⑶
JOCS「祈りの手紙」(二〇号、二一号)より
●5号(1985・3)
ペシャワール通信⑷
パキスタンあれこれ
●7号(1985・10)
ペシャワール通信⑹
ペシャワールから見た日本
ライとは
どうして靴が大切か
●8号(1986・5)
ついに完成! ワークショップ
ペシャワール通信⑺
JOCS「祈りの手紙」(二五号)より
●補(1986・5)
JOCSパキスタン・プロジェクト 一九八五年度活動報告
●10号(1986・12)
ペシャワール通信⑻ 韓国・麗水よりの手紙
らい病棟での小さなできごと 故郷
●11号(1987・3)
ペシャワール通信⑼
ひとつの事故から
●12号(1987・7)
JOCSパキスタン・プロジェクト 一九八六年度活動報告
●13号(1987・10)
◎ペシャワール通信⑽ 小さな二都物語 カブールとペシャワールの間で
●15号(1988・4)
歴史の中、常に抗争の舞台に
●16号(1988・7)
流動する内外の状況 JOCSパキスタン・プロジェクト一九八七年度活動報告
●17号(1988・10)
◎中村哲医師帰国報告―第6回総会 難民問題とさまよえる豪華客船日本丸
●18号(1989・2)
近代という迷信の中で
●19号(1989・5)
◎ペシャワールからの便り アフガン人チームの育成とてんかん診療の準備中です。
アフガニスタン復興のための農村医療計画(Ⅰ)
●20号(1989・7)
遠い将来を見越して種まきが始まった JOCSパキスタン・プロジェクト一九八八年度活動報告
アフガニスタン復興のための農村医療計画(Ⅱ)
●21号(1989・10)
◎ペシャワールからの手紙 我々の種蒔きの仕事は何十年でも続くでしょう
●22号(1989・12)
あるパシュトゥン患者の死
私も若いのでJAMSと共に頑張っていきます
我が家の小さな論争
●23号(1990・4)
主役は我々でなく現地の人々だということを原点に
●24号(1990・7)
我々は自分の出発点にくりかえし立ち返らねばならない 一九八九年度ペシャワール活動報告
日本は今、海外協力における試行錯誤の時期
われもと雲の性(さが)なれば
●25号(1990・10)
ペシャワールの風土と会の現地活動の軌跡⑴
●26号(1990・12)
小さいながらも我々の努力は充分報われつつあります
ペシャワールの風土と会の現地活動の軌跡⑵
●27号(1991・4)
ある葬送 屈折した気持ちを抱いて
◎ペシャワール便り 信頼厚く和気あいあいと
イスラム住民に無理解な日本
●28号(1991・7)
氷河の流れのように 一九九〇年度を振り返って
ジハド あるゲリラ兵士の変貌
●29号(1991・11)
変貌 らい病棟の女たち ⑴
●30号(1991・12)
変貌 らい病棟の女たち ⑵
●31号(1992・5)
変貌 らい病棟の女たち(完)
故 佐藤雄二君(ペシャワール会事務局長)を懐う
●32号(1992・7)
国際協力・天動説から地動説へ 一九九一年度を振り返って
ダラエ・ヌールヘの道⑴ 国境越え
●33号(1992・11)
ダラエ・ヌールヘの道⑵ 戦火の果て
三無主義
●34号(1992・12)
ダラエ・ヌールヘの道(完) 国内診療所開設
●35号(1993・4)
見捨てられるアフガン民衆 カブール九二年十一月
●36号(1993・7)
時代に迎合せぬ不動の石でありたい ペシャワール会十年の歩み
カブールの権力闘争よそに地方に平和、田園は緑に 一九九二年度を振り返って
●37号(1993・11)
居場所を忘れたニワトリ ある難民の心象風景
●38号(1993・12)
ダラエ・ヌール周辺で悪性マラリア大流行
最悪の事態回避 持続的支援を!
ヌーリスタンの渓谷 Ⅰ インダルの園⑴
●39号(1994・4)
ゆれるアフガン ゆるがぬJAMS
マラリア禍を脱す 二万人近い患者が治癒
●40号(1994・7)
暗きにこそ灯を、騒乱にこそ平和を 一九九三年度を振り返って
ヌーリスタンの渓谷 Ⅱ インダルの園⑵
●41号(1994・10)
ヌーリスタンの渓谷 Ⅲ ケララ村の惨劇 生きる者驕るなかれ
●42号(1994・12)
光に向かって我が身を放り投げる 自前のらいプロジェクト発足
●43号(1995・4)
◎ペシャワールからの手紙 久々にすがすがしい気分です。
◎アフガニスタン難民帰還後のマラリア流行の実情 ’94年のフィールドワークの成果が顕著に現れる
●44号(1995・7)
繰り返し出発点に戻る PLSが発足し現地基地として強固に
◎ペシャワールからの手紙 着実に根を下ろすPLS
●45号(1995・11)
◎ペシャワールからの手紙 戦雲の中、プロジェクトは一段と充実
●46号(1995・12)
生と死 パミールの山奥で
●47号(1996・4)
新病院=治療センターの建設を!! 二年以内の診療開始がリミット
●48号(1996・6)
世の虚構に対し黙して事業継続  最大課題はハンセン病院建設
●49号(1996・10)
ハンセン病の真実と偽り 今、なぜ「らい」なのか
●50号(1996・12)
貧しさの中の豊かさ 華やかな日本の師走に思う
●51号(1997・4)
戦乱に希望を、敵意を宥和に
●52号(1997・7)
慰めと希望を共に分かつ事業を 新病院は来春開院式
●53号(1997・11)
混乱の中に芽生える希望 新病院建設に思う
●54号(1997・12)
新病院建設と新たな態勢 人間の悪と良心の彼方にむけて
●55号(1998・4)
対立と平和 次期三〇年をめざして
●56号(1998・7)
対立越える不動の基地を 現地活動は新たな時代に
●57号(1998・10)
◎新病院への移転を目前に控えて 不安のはびこる世なればこそ確固たる実事業を
●58号(1998・12)
◎新病院への移転を終えて 世の様々な不安をよそに、現地事業は撥剌と継続
●59号(1999・4)
◎コーヒスタン進出も順調 やっとゆとりが出てきました
●60号(1999・6)
人間の弱さと強さの中から 十五年の軌跡を振り返りつつ
●61号(1999・10)
◎外国団体経営の医療施設の相次ぐ閉鎖のなかで 貧困層患者の増加に備え、規律を徹底
●62号(1999・12)
◎虚構が真実を制する時代に 異文化の壁越える強固な基盤を
●63号(2000・4)
挑戦 嫉妬・怨恨・陰謀・邪推の渦巻く中で
●64号(2000・7)
虚構でなく事実を、不安でなく希望を
●65号(2000・10)
飲料水を確保し、「終末」に対峙せよ 目標水源七 〇〇、現在一五〇カ所で着手
●66号(2000・12)
◎アフガン大旱魃 医者井戸を掘る  人知を超えた闘いに挑む
●67号(2001・4)
あえてカブールへ 暴を以て報いず
●68号(2001・7)
虚飾はびこる世界に〈現実の格闘〉を以て抗す
●69号(2001・10)
私たちは帰ってきます 「アフガンいのちの基金」にご協力を!
新たな難民をつくらないために
●70号(2001・12)
◎首都カーブル貧困層十万人に緊急食糧配布 はびこる虚構の影で 事業は総力をあげて継続

中村哲

1946年(昭和21年)福岡県生まれ。医師。PMS(平和医療団・日本)総院長/ペシャワール会現地代表。
九州大学医学部卒業。日本国内の病院勤務を経て、84年にパキスタンのペシャワールに赴任。以来、ハンセン病を中心とした貧困層の診療に携わる。86年よりアフガニスタン難民のための医療チームを結成し、山岳無医地区での診療を開始。91年よりアフガニスタン東部山岳地帯に3つの診療所を開設し、98年にはペシャワールにPMS基地病院を設立。2000年からは診療活動と同時に、大干ばつに見舞われたアフガニスタン国内の水源確保のために井戸掘削とカレーズ(地下水路)の復旧を行う。03年、「緑の大地計画」に着手、ナンガラハル州に全長27キロメートルに及ぶ灌漑用水路を建設。その後も砂嵐や洪水と闘いながら沙漠化した農地を復旧した。マグサイサイ賞「平和と国際理解部門」、福岡アジア文化賞大賞など受賞多数。19年10月にはアフガニスタン政府から名誉市民証を授与される。
2019年12月4日、アフガニスタンのジャララバードで凶弾に倒れる。
著書:『ペシャワールにて』『ダラエ・ヌールへの道』『医者 井戸を掘る』『医は国境を越えて』『医者、用水路を拓く』(以上、石風社)、『天、共に在り』『わたしは「セロ弾きのゴーシュ」』(以上、NHK出版)『希望の一滴』(西日本新聞社)など。

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