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画・甲斐大策

日本を愛した人類学者

エンブリー夫妻の日米戦争
田中一彦
本体:2200円+税 *四六判並製/352ページ

第31回地方出版文化賞・功労賞『忘れられた人類学者』待望の続編

1935年から1年間、熊本の小村・須恵村に滞在し、
外国人として戦前唯一の日本農村研究書を著した
アメリカの社会人類学者とその妻。
開戦前、いち早く象徴としての天皇に言及、
『菊と刀』に代表される“好戦的な日本人”論に異議を唱えつつ、
日系人強制収容所の待遇改善を訴え、
戦後はFBIによる監視下も傲慢な占領政策を戒め続けた
俊英の思想とその悲劇的な死までを描く労作。

ジョン・エンブリーとエラ……………………
1908年アメリカ・コネティカット州生まれの社会人類学者。カナダのトロント大学で人類学を学んだ後、35年から1年間、熊本県球磨郡須恵村(現あさぎり町須恵)に滞在。10代を日本で過ごし、日本語が堪能だった妻エラとともに調査を行う。その成果は『Suye Mura : A Japanese Village〔日本の村・須恵村〕』(39年)として発表され、人類学者による戦前唯一の日本農村調査として知られる他、ルース・ベネディクト『菊と刀』の重要な参考図書となった。帰国後はシカゴ大学で博士号を取得し、戦時下のアメリカにおいて強制収容された日系人の再定住政策にも関わる。戦後はGHQの占領政策に大きな影響を及ぼしたが、50年、娘クレアと共に交通事故に遭い急逝。妻エラはその後再婚し、3度にわたって須恵村を再訪。82年、須恵村滞在時のフィールドノートを編集した『The Women of Suye Mura〔須恵村の女たち〕』を刊行。2005年没。

◎本書プロローグより 
 
 アメリカの社会人類学者ジョン・フィ・エンブリーと妻エラは、カナダのトロントの自宅で、ラジオから流れてきた臨時ニュースの声に凍りついた。
「今朝、真珠湾が敵機によって爆撃されました! 日本軍です。ホノルルも攻撃を受け被害は甚大です!」。
 一九四一年(昭和十六)十二月七日。日曜日の朝七時四十九分(日本時間では八日午前三時十九分。現在の時差は十九時間だが当時は十九時間半)、日本海軍がハワイ・オアフ島の真珠湾を奇襲、日米戦争の始まりを告げる緊急放送だった。ハワイと六時間の時差がある東海岸では、開戦の放送は最初の攻撃から約一時間後の午後二時半ごろから流れていたが、トロントのエンブリー夫妻がラジオのニュースを聞いたのはその日夕刻。休日を利用して二人の妹エドウィナとキャサリン、それに友人たちを自宅に招き、すき焼きの鍋をつつこうと準備している最中だった。
「キャサリン! ニュースを聞いたか? 聞いてなかったら、すぐラジオをつけろ」。
 エンブリーは、町の反対側に住む二人の妹に直ちに電話を入れた。真珠湾は、エンブリーがハワイ大の学生だった十年ほど前、兄妹三人で住んでいた家のすぐ近くだった。
 衝撃のニュースに驚いて顔を見合わせた夫妻の脳裏をよぎったのは、五年前に村はずれまで見送ってくれた九州の片田舎の村人たちの懐かしい面影だった。一年間の村の暮らしを、「国際的友愛のなかで、一九三五年(昭和一〇)から三六年に至る須恵村の酒宴ほど深いものはない」とエンブリーが懐かしんだ、あの須恵村である。
 それは一九三六年十一月二日、まる一年間を過ごした熊本県球磨郡須恵村(現あさぎり町)を去った日の光景だったに違いない。
 まだ夜も明けやらぬその朝、夫妻の借家に村の人々が焼酎の猪口と燗を付けるやかんを持ってやってきた。
「女たちは、私が二人の女性に金玉を一個ずつ置いていくべきで、その代わり豆(女性器)を記念にあげる、と言った」。
 須恵村らしい愉快な冗談を交えた短い別れの盃とおしゃべりの後、村を去る夫妻を見送ったのは三味線のバチの音と名残を惜しむ多くの村民の涙だった。
 そんな村民の暮らしに基づいて、ジョン・エンブリーは『日本の村 須恵村(Suye Mura:A Japanese Village)』(一九三九年、以後『須恵村』と表記)を、エラは『須恵村の女たち(The Women of Suye Mura)』(一九八二年)を著し、ともに日本語に翻訳されている。特に開戦二年前に刊行された『須恵村』は、戦前の日本の農村社会の暮らしぶりを描いた外国人人類学者による唯一の著書として知られ、内外の研究者に高い評価を受けている。
 しかし、日本を離れて五年後のラジオニュースは、須恵村の友人たちを無情にも敵方に一変させ、日本人と日本に深い親しみを抱いていた夫妻の生涯に試練を課す過酷な運命の幕開けを告げるものでもあった。
 開戦後のアメリカで、日本をよく知る人類学者として戦中戦後に果たしたエンブリーの、決して軽くない役割はどんなものだったのだろうか。
 私は、エンブリーが在籍したエール大学東南アジア研究所の編集者アンナ・ピケリスによるエンブリーの業績に関する参考文献一覧(巻末参照)を手掛かりに、現存する文献に可能な限り目を通した。すると、戦争に振り回されながらも、巡り合わせの中で懸命に生きたその短い生涯に深く引き込まれていくと同時に、知られていない戦中戦後のエンブリーの重要な仕事ぶりが次々に明らかになった。
…中略…
「日米戦争中のアメリカ」という情況で生きたエンブリーを一言で表すなら、「異端の人類学者」ということになるだろうか。それは、アメリカ政府に重んじられながらも、一方で連邦捜査局(FBI)に監視され続けたその境遇を見れば明らかだ。国家に貢献したそのポジションと真逆に見えるほど、エンブリーの言説はアメリカで異端視された。しかも、疎外された日系アメリカ人や敵国人さえ含めた異文化の側に身を寄せることによってエンブリーは異端となった。いや、異端とされた、と言う方が正確だろう。
 だが、戦争という異常な情況を振り返る現代の私たちの目でエンブリーの生き方を見るならば、異端では全くない。人を愛し、平和を尊び、正義と信念を貫かんがために、真剣に戦争と向き合い、闘った一人の研究者の姿が立ち上がってくるのだ。

今西錦司
「一村の全貌をつたえるという点で、『スエムラ』の向こうを張るようなものは、まだわずかしかない」
宮本常一
「外国人のすぐれた調査記録として、当時学会に大きな反響をよんだ」
梅棹忠夫
「日本の農村研究は須恵村からはじまったといえる」
ルース・ベネディクト
「日本の村落に関する唯一の人類学者の実地研究」
鈴木栄太郎
「外国人としてこれ以上に日本農民の心を読みとる事はおそらく望み得ないであろう」

[もくじ]
プロローグ 日米開戦とエンブリー
第1章 人類学への道
第2章 須恵村へ
第3章 日米開戦、情報機関へ
第4章 日系人強制収容所での葛藤
第5章 占領軍士官を教育
第6章 二度のミクロネシア調査
第7章 戦火のインドシナへ
第8章 ユネスコ、ポイント4、そしてFBIの影
第9章 須恵村・国家・戦争
第10章 自民族中心主義に抗して
第11章 「国民性」論争
第12章 『菊と刀』への批判
第13章 ジョン・ダワーのエンブリー批判
第14章 「占領」と民主主義
第15章 象徴天皇制とエンブリー
第16章 『須恵村』と農地改革
第17章 ハーバート・ノーマンとヘレン・ミアーズ
エピローグ 日本への「愛」

田中一彦(たなか・かずひこ)
1947年、福岡県瀬高町(現みやま市)生まれ。京都大学経済学部卒。新聞記者を経て、2011年から2014年まで熊本県あさぎり町に単身移住し取材。著書に『忘れられた人類学者(ジャパノロジスト) 〜エンブリー夫妻が見た〈日本の村〉』(忘羊社・第31回地方出版文化賞功労賞)共著に『知ってはならないパリ』(文芸社)『食卓の向こう側』『君よ太陽に語れ』(以上西日本新聞社)。日本GNH学会常任理事を務める。

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